「罪悪」元川
生まれついての犯罪者はいないと言われる。生まれついての悪者もいないと言われる。
しかし、世の中には犯罪者はいるし、悪者もいる。
では、犯罪者になる過程を想像してみる。
やはり幼少の頃に愛が足りなかったのか。佐古田さんの言われる通りだと思う。愛に溢れた環境であれば、犯罪者とは縁遠い存在だろう。
ただ、愛が足りてなくても、それでも犯罪者や悪者にもならず、全うに人生を送っている人もいるのも確かだ。
僕が想像するに、犯罪者かどうかの差は、僅差微差なのだと思う。僕も含め誰もが犯罪者予備軍になりうるのだ。
例えば児童虐待。
最初はほんの些細なことからスタートしているのでは。仕事が上手く行かなくイライラしているときに、子供が何か失敗をする。反射的に暴言や暴力を振るってしまったという可能性。
してしまった、過失であるが、多分そこには罪悪感もあったはずなのだ。
それと同時に子供が怯え、泣き出し、自分の言うことに従うことへの征服感。そして悪いことをしたという罪悪感から来る、言葉に出来ない一種の快感があるのだろう。
そうやってエスカレートしていく。
この罪悪感からくる快感。僕らにも覚えがないだろうか。「やるな!」と言われることほどやりたくなる気持ち。そしてそれを内緒でやってしまったときの罪悪感。さらに罪悪感からくる何とも言われない快感。
正義感が強い人ほど、その反動の罪悪感も強くなるのではないだろうか。
現代人は僕も含めて、とかく正義感を全面に出す人が多い。だから昔に比べてとんでもない事件が起きるのだと思う。
そもそも正義や罪悪は、時代によって大きく変わるもの。今は過渡期なのかもしれない。
そういう時代にこそ、「グッと踏ん張れる軸になる何か」が必要なのだと思う。でないと明日の犯罪者が僕になる可能性も十分考えられるのだ。
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