「関心」元川

「愛」の反対は何であろうか?

この有名な質問。お分かりだろうか。

僕は若い頃、「愛」の反対は、「憎悪」だと思っていた。今でも思うところもある。

「憎悪」の反対は?と聞かれたら、それは「愛」だと思うからである。

「愛」の反対の本当の答えは、「無関心」なのだそうだ。

僕はこれを体感したことがある。経験者なのだ。

詳しい内容は伏せるが、愛する人から無関心な態度をされたとき、

「あぁ、マザーテレサの言う通りだった...。」と心の底から思ったものだ。

今の世の中、情報化社会であることは間違い。日本の裏側の事件も、数秒も違わず、同じ情報を共有出来る。インターネットがない時代には考えられないことだろう。

そして個々人が色々な玉石混交の情報を瞬時に流している、僕のように。少し調べれば大概のことがわかったような気がしてくる。

普通に考えると、この情報化社会である方が、色々なものに関心が出てくる、愛情も出てきてもおかしくない訳だが、実際は真逆である。

いつでもどこでもインターネットで調べれば、ある程度のことは分かることが、無関心を産んでいると思う。ある意味「自己完結」。

昔、人間は周りの人々に迷惑を掛けて生きてきたのである。もちろん迷惑掛けようとしていた訳ではないが、社会の仕組み上、迷惑掛けざるおえなかったのだ。それはお互い様でもあった訳でもある。

そうすると、迷惑を掛けてしまった人に関心を持つのは当たり前。また迷惑掛けられてもいいように関心を持つことも必要だった。

しかし、今はどうだろう。お一人様だとか何とか言って、何でも一人で完結出来る仕組みが整ってきている。その日一日誰とも喋らないという人も珍しくない。

世の中に「愛」が無くなってしまったのだろうと思うのである。

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