「存在」佐古田
もっくんから「存在」という文章を寄稿していただいた。
「後世への手紙」はどのような存在なのだろうか。
我々は単独で存在することはなく、連鎖し影響しあい存在している。言葉は私を振動させ、振動した私がまた周囲の人々の日常に影響を及ぼしている。
後世への手紙は、死が目の前にあるという実感だ。
近しい人が死ぬ。私が死ぬ。肉体は消えるが、彼・彼女のネット上の戸籍であるアカウントは今も存在し続け、アクセスすれば情報の海に溶けた断片的記憶に触れることができる。
情報の海に溶けた言葉は良い意味でも悪い意味でも完全に消えることはない。
「愛の反対は無関心」もっくんの言葉が印象に残る。無関心にならずここに記す言葉が、なにかの手がかりから、書き手にとって近しい人が死後、私達の存在をネットに探すかもしれない。
見て欲しいのではない。生者が死者にアクセスできることに意味があり、ネットの海に溶けた死者の言葉を拾い上げたとき、お互いは振動しあうのではないか。それは死者は生きるということではないか。
デジタルなネットの海は広大だ。
後世への手紙はこの海に溶けていく。
この連鎖する世界で、人の認識はいつも後からやってくるし、認識する以前から世界は存在し、我々は恩恵を受けている。
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