「存在意義」佐古田

逆もの講新聞を「やります」と声をあげた。
灯火を絶やさぬ、運営する責任を感じている。

個人がブログやSNSで発信することが簡単にできてしまう時代に新聞とは何が存在意義になるのだろうと当初からずっと考えていた。
紙の新聞は公式発表の統計を見ても前年を割り込み、発行部数を落とし続けているらしい。
「世界を知る」という行為は我々が思うより、質的変化を遂げつつあるようだ。

例えるなら、配給制度による給食(情報)を受け取るしかなかった小学校の世界から、一瞬にして世界中のグルメ(玉石混交の情報)を自分で選べる大人の世界に変わったようなものか?
美味い店から危険な香り漂うお店まで自己責任ではあるが選択権は委ねられたのだ。
この選べるというのは曲者で、こちらが小学生のまま歓楽街をウロウロしてたらぼったくられてしまう。

そりゃ、悪いお店は淘汰される、美味くない店は潰れるでしょう、と素人のわたしは思ってしまうのだが、ニュースは我々にとって必要なものが大きく報道されるとは限らないし、その報道すら歪曲されたものであるかもしれない。つまり食あたりを起こすようなお店が意図性を帯びて堂々と闊歩していることだってある。

望むか望まざるかわからないが、ぼけっとしてはいられない。自分の五感が頼り…いや第六感もフル活用して、情報を自ら取得することを迫られる。



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