「食べる」佐古田

いただきますの瞬間どんな気持ちがしますか?

私は食肉に関わる仕事なので、牛さん豚さんの命を糧に生きている責任、お肉を買っていただいた料理人さんに対する感謝、生命を商売にする畏れ。
そのような想いを食事のたびに抱きます。

ある生産者さんは愛情を持って、生産に向き合い家畜に接しておられる。
「食べるのが目的。だからその日までこの子(家畜)たちには幸せを感じて欲しい」と仰っていたのが印象的だ。

…うーん、私が牛豚だったら、こんな風に育て、接してくれたら嬉しい。食べる目的によって産まれた存在は厳としてある。それが現実であり愛玩動物ではない。ペットが善で家畜は悪なんてことはないし、食べるという使命の成就があるのだ。

人々から可哀想という声が出る気持ちも理解できる。犬や猫を飼っている人は特にそうかもしれない。

ならば、なぜ魚は可哀想と声をあげないのだろう?
なぜ、にんじんは可哀想ではないのだろう?

姿形が人間に近いものが可哀想で、そうではないものは何とも思わないというのも私たちの偏見ではなかろうか。そこにすでに上下の差別心を持ち込んではいないだろうか。

我々と生き物は常に対等であると思う。

山で獣を狩る猟師の方に話を聞いたことがある。「人間は弱い。だから鉄砲を持ってやっと対等になれるかどうか。イノシシの牙は非常に危険で、猟犬の腹を突き刺し、しゃくりあげて絶命させるなんて当たり前のこと。もともと自然は危険なんです」

食肉産業は皆さんの需要によって存在している。この社会の輪の中で、生産、屠殺、消費をしているわけだ。私たちがお肉を食べたい!という需要に応え、現場のみなさんは働いてくださっている。その仕事ぶりはまさにプロフェッショナルだ。
絶命の瞬間を受け止める仕事はそれほど多くはない。

食べ物をいただく、命を戴く。


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