「わらしべ長者」熊谷



言葉は不思議なものだ。
こうして久しぶりに書いているからか
上手く伝わるとは思えない。
この投稿を見ている不特定多数の人々も
それぞれの認識があるだろうから、
完全に伝わることなどないだろう。
だがここで言葉の不思議を書けるほどの
気合が無いので早々に本題に移りたい。

言葉の後には「編む」や「紡ぐ」といった動詞が
使われることが時々ある。
最初出逢った時に一種の興奮に陥った。
糸になって布になって服になって中古で着回されることもあるだろう。
実際着てみたら自分の身の丈に合わないこともあるだろう。
切り貼りして新しい服を作ってもちぐはぐで、元の全体像がわからない、なんてことも良くある話だ。
とにかく湧き出る思考が止まらない程に興奮したのだ。

それから、しばらく言葉は糸であった。
だが、はて、「編む」とは糸だけのものだっただろうか。
藁も「編む」ではないか。

そう思いたったときに、手繰り寄せられたのが
題名の「わらしべ長者」だった。

そして、「溺れる者は藁をも掴む」だった。
前者の「わらしべ長者」は藁を元手に交換していく話だと認識している。それは得てして、読書会や感想の言い合いと似ていよう。
藁としての「言葉」を元手に交換して相手から無形の「言葉」を貰う。ただし、元手は残るためただの交換ではない。
多くの交換を経験して手元に残った中に金言はあるかもしれない。それが実は最初の藁だったらそれも乙なものだろう。

後者の「溺れる者は藁をも掴む」は生きてる間に一度は遭遇することわざだ。
どこで溺れるのだろうか。
川が想像しやすい。
ただこの生きている世界では、情報の海と捉えることも出来るだろう。
ネットだけではなく本を読んでいても間断なく来る波に溺れかける。生き延びようと藁を掴む。
溺れかけた経験も大事だが、その中で必死に掴んだその藁が大事ではないか。
その後漂流して海岸に流れ着いて、一文無しで藁を交換することになっても面白い。

言葉が糸になり、藁になった。今のところ5年刻みで気付いている。
5年後、言葉は何になっているのだろうか。
楽しみでならない。

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