「道徳」元川
道徳と言うと、僕は論語を思い出す。そして論語と言うと、やはり孔子だ。
四大聖人(キリスト・ブッタ・ソクラテス・孔子)に挙げられるのだと。しかし僕の中では孔子が聖人というイメージはあまり無い。
この論語も、孔子が作ったのではなく、その弟子達が孔子のまつわるエピソードとして後から作ったものだ。
戦前・戦後の日本人には「論語=素読するもの」という感覚だったのでは。
いつから素読を止めてしまったのだろうか。
道徳=論語、現代では必要されなくなってきているのか。道徳=正義の世の中になってしまったからだろうか。
僕の好きな論語のエピソード。
『葉公、孔子に語りて曰わく、吾が黨に直躬なる者有り。其の父、羊を攘みて、子之を證す。孔子曰わく、吾が黨の直き者は是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。』
葉という国の王様と孔子とのやり取り。
葉公「我が国では、法令遵守が行き届いていて、この前、羊を盗んだ父親を見たその子供が、警察に訴えて父親を逮捕したんだ。親子関係よりも法律を守ることを優先した子供がいるなんて、すごいでしょ!」と。
すると孔子は「その罪を見つけたら、親は子を守り、子は親を守ることこそが本当の人間なのではないか。警察に突き出すなんてもっての他だね。」
これが「道徳」か?
僕自身が道徳とは何なのか分かっていないから仕方がないが、論語は人の生き方のヒントが多いと思う。だから2500年も読み続けられているのだろう。
ただこのエピソード、僕は裏があると思っている。この葉公の国は厳罰主義でガチガチに国民を縛り付けているのだ。
だから敢えて孔子はこう言ったのだと思う。これがもし全く法律がない国だったら逆のことを言っていたのではないか。
厳罰主義の葉国、今の日本とよく似てやしないだろうか。
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