「学生時代」

学生時代、弓道をやっていました。

高校生活は、稽古の記憶しかありません(笑)
今から考えれば、大変贅沢な時間を過ごさせて頂いたなあと振り返ると思う。仲間にも恵まれ、朝練習から夕方の部活、夜は社会人も参加される道場へと夜遅くまで毎日繰り返していました。

試合に向けた稽古のある時期、師範に
「お前はそこで(弓を)引いてな」とニコニコの笑顔で言われたのをよく覚えている。ある期間、技術的な指導をあえて何もおっしゃられなくなったのだ。

当時はその言葉に大変焦ったおぼえがある。

道場には、他校の代表選手や国体の選手も稽古に来ており、全国大会で優勝する強豪校や国体優勝者もいらっしゃった。もちろん仲間であり、競技では全国大会への切符をかけて戦うライバル、目標でもあった。皆、仲間はどんどん上手くなっていく。

「そこで弓を引いていろ」

技や心が熟達するためには「上手くなる」という進歩だけでなく「深まり」の期間が必要だ。
身につけた技術が上部(うわべ)にとどまらず、血肉になるまでの反復練習がどうしても必要な時期がある。成熟を待つ期間といえばいいかもしれない。
特に弓道は立禅とも呼ばれ、心の作用が身体(現実)に及ぼす影響が非常に大きい競技だと思っている。

心に囚われがあり、雑念の塊であった私の心を見抜かれ、「時間をかけろ」という旨を直接的な表現ではなく、気づきを得るようにお話しくださったと今は解釈している。

情けない話だが、当時はなかなか肚に落ちず、苦しんだ覚えがある(笑)技術の指導を受け、すぐに上手くなりたかった。焦っていたし、裏返せば自信がなかったのだと思う。問題を小手先で解決する癖は、いざという時に弱い。ちょっとしたキッカケから全てが崩れていく。

射形(肉体)と心の一致。この二つを調和していく稽古の体験が私の一元論にむかう原点になっていると今振り返ると思う。


以下弓道を始めるとまずはじめに暗記する、「礼記射義」と呼ばれる弓に向かう心を表した文です。
(平仮名は漢字の読みです)
我々逆ものにも通ずる思いがしますね。武道の良さは、昇段審査にあたり、技術だけでなく学問の試験もあるというのが魅力だと私は思います。


礼記らいき射義しゃぎ

射しゃは進退しんたい周還しゅうせん必かならず礼れいに中あたり、内うち志こころざし正ただしく、外体そとたい直なおくして、然しかる後のちに弓矢ゆみやを持とること審固しんこなり. 弓矢ゆみやを持とること審固しんこにして、然しかる後のちに以もって中あたると言いうべし.これ以もって徳行とくこうを観みるべし.
射しゃは仁じんの道みちなり. 射しゃは正ただしきを己おのれに求もとむ. 己おのれ正ただしくして而しこうして後のち発はっす. 発はっして中あたらざるときは、即すなわち己おのれに勝かつ者ものを怨うらみず. 反かえってこれを己おのれに求もとむるのみ.

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