「ありがとう」佐古田

「ありがとう」といいましょう。

キラキラことば運動という取り組みが、子供の通う小学校でも行われている。素敵な取り組みだと思いつつ、それと同時に私を含めた保護者は、子供の心により強い興味と関心を持ち、注目したいと思う。

● 本能衝動による「感情」でありがとう
● 現実に適応するため「知性」でありがとう

世界に現れる言葉は全く同じなのだが、その本質は全く異なる。中原中也が言う、名辞以前の感覚を感じたいと思う。この世に現れる、言葉を与えられる前の感情。


よくテレビで見かける事件報道で、犯人の周囲の人物にどんな人物だったかと取材する。
「挨拶もしっかりする真面目な方でした。こんな事件を起こすなんて信じられません」

言葉はいつも心を表すとは限らない。
愛情から出る真面目さもあれば
憎しみを隠すための真面目さもある。

ありがとうと感情を表現する子供もいれば
ありがとうと言いながら憎しみを隠す子供もいる。

ありがとうと話すから喜んでいるとは限らない。
子供と触れ合う親御さん、先生が教条主義や自分の想いに囚われて他者に関心を持つことができないのであれば、この二つの間に光が差すことはないかもしれない。




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