「専門家」に勝るもの コペル
どんなワイドショーでも、コメンテーターという存在を必要とする。
関係の無い人が好き勝手言っている場合もあるが、大事なテーマの時にはその道の専門家がスタジオに呼ばれて、もの申す。専門家が問われるのは特化していることだ。多少世間知らずでも、その道でその人より詳しい人が少ないことが取り柄とされる。
一方、世の中的な問題の多くは、見えるもの見えないものが複合的に絡み合って起きていることが多い。
自然、専門家の尖ったコメントでは問題は解決には至らない。だが世間は専門家をもて囃す。「専門」であるという肩書きに後光が差している。その「専門家」の発言が多角的でない、実践的では無いという批判は肩書き1つで吹き飛んでしまう。
しかしどうだろう。叡智の蓄積という点では確かに我々は専門家に敬意を払う必要がある。
一方、現実世界に叡智を適用する実践人としては、専門家に与しうる要素が多分にあるのではないだろうか。
禅の研究家が悟りを開いているだろうか。歴史研究家が政治方針をアドバイスできるだろうか。歯科医師全員が虫歯も歯周病も口臭もない、ということがあり得るだろうか。
巨人の肩に乗りつつ、現実の荒波に向かい合う姿勢なくして思考は現実化しない。
と今日も1つ自分の心に留め置く。
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2020.07.16 13:31
2020.07.04 02:30