「本当のことは書けない」だからこそ。



2月に開催してから約半年ぶり。
逆もの名古屋に小川さんをお招きして、僕たちは本当に久しぶりに集う機会を得ました。
しかしまだ状況は完全に元通りというわけにはいかず、様々な状況の中でまだ来れない、そういう人がいることを思って、ここに皆で集えていることが、本当に有難い気持ちでした。

この半年間、僕は本当に色々な非日常を味わいました。しかしそれは何も自分にだけ起きた出来事ではなくって、よくよく考えてみれば当たり前のことだけど、その当たり前のことを再確認するには、
人と会わなければなりません。

ある人はこう発言しました。
「本当のことは書けない」と。
つまり公には出来ないことの中に、真実があるということ。
もしくは、真実は、言葉だけでは伝えられないということ。
言葉と、表情と、声のトーンと、微妙な空気。

会う。
そういうことでしか、伝えられないことがあるんだ。僕は自分の気持ちを代弁してくれたこの発言に、救われた気がしました。

この半年間に僕が経験した出来事の数々は、
とても簡単には書けないことばかり。
「苦渋の決断の連続だった」と表現したところで、
上滑りしている感は拭えない。
言葉で誰かにこの思いを伝えることは、到底出来ない。
言葉は万能では無いということを、嫌というほどに突きつけられる。
それでもなお、書かなければなりません。

読書とは、読むと、書く。
文字で。映像で。音で。
発信することが必要だと、そう思います。

「本当のことは書けない」の裏側には、
書くことで、書けない本当のことを、見つけられるというささやかな希望が見え隠れしているから。



人は、経験したことをいとも簡単に忘れることができます。
試しに思い出してみてください。
この数年前、どんな出来事がいつあって、そのときあなたは何を考え、どう自分を奮い立たせ、生きてきたのか。
今の自分に至るまでに、どんな本の、どんな人の、どんな言葉に奮い立ち、
何を思い、何を行動し、どうやって自分を変えてきたのか。

諸行無常といって、人は常に変化しているのだけれど、
今の自分に至るどのタイミングで今の自分が形成されたかなんて、
正確に言い当てることはもはや出来ない。
書いてこなかったから。
書くまでもない。
僕の人生の、ちっぽけな一日一日の積み重ねだと思っていたから。

そうやっていつしか、忘れている。
でも、それでいいと思っています。
忘れる能力は、神からの恩寵だと思います。
私達には忘却システムが備わっていて、だからこそ、生きていける。
日々どれほどに苦しんだとしても、きっとその苦しみを忘れて、乗り越えていけるのだから。

しかし忘却の彼方へ押しやられた自分の葛藤の日々は、
そのまま消えてなくなってしまえば、
後世へと伝える術を失ってしまう。

僕は、今まで矛盾や葛藤にどう向き合ってきただろう。
大概のことは、もう忘れてしまった。
でも、忘れ去られてしまうことは、ちょっと残念な気もする。
自分自身でも、過去の自分が葛藤した日々を、思い返したい時がある。
人に見せる必要は無い。
ささやかな日記でも、十分だ。

そう思ったから、僕は2年前から毎日日記を書いています。
つまり、毎日「書く」という行為を続けています。

今回、ある人は日記をもう12年続けて書いていると言いました。
その人の言葉は、静かで、重みがあった。
経験に裏打ちされた、実感のこもった言葉。
そういう言葉を発することが出来る大人に、誰だってなれる。
だから、書けばいい。

でも、
「本当のことは書けない。」
残念な気もしますが、これは真理だと思います。
それに気づかせてもらえて、良かった。

だからこそ、書くことでこの大いなる矛盾と対峙しつつ、
日常と非日常の波を乗りこなして生きていこう。
そう思うことができた、約半年ぶりの逆もの名古屋での集いでした。

大阪や東京からも来てくださいました。
参加者皆様で作り上げたかけがえのない時間と空間に、感謝致します。
まさに一期一会ですね。
名古屋の逆ものは、茶道の教えに通ずるものを感じます。
毎回が違っていて、毎回が真剣ですよ。
実践人と実践人の生き様のぶつかり合いを皆で共有し、
今日からまた、自分のやるべき日々を送っていきます。
また会う日まで。

改めて。
文字で、書く。
映像で、語る。
音で、伝える。



「本当のことは、書けない。」

だからこそ発することで、
本当のことを見つけ出し、
本当のことと向き合い、
本当のことを内に秘める人たちと、
また集いたいですね。


0コメント

  • 1000 / 1000