詩乃ジカンさん、ありがとうございます。
詩乃ジカンさんのサイトで、記事を朗読していただきました。
詩乃ジカンさん、ありがとうございます。
以前、この「後世への手紙」の編者さんから、
音で文章を伝えることで、
読者が重層的に文を味わうことができるようになったと、
そう言ってもらったことがありました。
その時は人の文章を僕が読んだのですが、
今回は自分の文章を読んでもらったことで、
改めて編者さんのその言葉を思い返しています。
文章を読むとき、
黙読するのと音読するのとでは、明確な違いがあります。
それは、使われている語の微妙なイントネーションだったり、
間(ま)だったり、
文末を上げて読むのか下げて読むのか、
だったり。
読点や句点についても、
筆者が何を意図して使い分けているのかだったり、
とにかく音読しようと思うと、
筆者に必然的に心を寄せることになります。
同時に、否が応でも自分の声や息遣いにも意識が向けられます。
つまり音読しているときというのは、
筆者に心を寄せると同時に、
自分自身にも心を寄せている。
ほんとうの意味で分かり合おうとする
そういう双方向のベクトルが現れるのだと思います。
ある人はこう言いました。
「声にはその人の人柄が出る」と。
また、こんなことも聞いたことがあります。
「声は嘘を付けない」と。
いい意味でも悪い意味でも、
声は正直です。
あなたの体調が悪いときの声は、
体調が悪いように聞こえるし、
怒りを押し殺して発する声には
やはり怒りを感じる。
「大丈夫です。」
と文字で書けば、
あぁ大丈夫なんだろうな、
と思うけど、
その人が発する声によっては、
「大丈夫です。」
が、
「大丈夫じゃない」
と伝わってくる。
声は、自分自身が楽器となって
口というサウンドホールから奏でる音色であります。
自分はどういう音色を出す楽器なのか。
それは、ひとえに日常を如何に生きているのか、
それにかかっています。
あなたは、どんな音色を出す楽器ですか?
わたしは、どんな音色を出しているのでしょうね。
日常に溢れる数々の音色の中に、
朗読を通して己の音色を感じるジカン。
詩乃ジカンさん、ありがとうございました。
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