社説 ▲空虚▼

「Web新聞「後世への手紙」発刊にあたって」
 
哲学者の池田晶子の遺した言葉に、「空虚な孤独が空虚な言葉でつながって」という一文を見つけた。(『絶望を生きる哲学 池田晶子の言葉』)2007年に没したこの哲学者の言葉はどうだろう。2018年で全く古びれていないどころか、真に的を得た言葉ではないか。今も天から私たちの様子を見られているようで、恥ずかしくもあり、悔しくもある。
私たちには、本能的に群れたいという欲望が遺伝子に組み込まれているのだという。石の斧でマンモスを追いかけていた頃。女は子を産み家を守り、男は獲物を求めて狩りに出ていた頃。私たちの祖先は、一人で生きていけなかった。個は真の孤独であって、個は即ち死であった。そんな太古の昔の経験は、本能として、また無意識レベルとして、私たちの遺伝子内に教訓を遺してくれた。群れたいという欲望。それはまさに、「後世への手紙」である。
翻って現代は、個の時代だと言われる。個が即ち死であった太古からすれば、価値観は180度逆になったと言ってもいいかもしれない。しかし現代の個は明らかに太古の個とは違う、似非である。空虚な孤独である。太古に比べて、孤独の次元が違う。現代は、群れたいという欲望に支配され、「空虚な孤独が空虚な言葉でつながって」いる時代だ。
この度、「後世への手紙」というWeb新聞が作られた。これは現代に対する愁いの記録なのかもしれない。しかし愁いを悲観するつもりは無い。「愁い」という言葉を調べると、「悲しく思うこと」とあった。「悲しい」は、「かなしい」と読むが、「うつくしい」とも読む。「愁い」を愁うる必要はない。それは、美でもある。また、「愁い」とは字の通り「秋」の「心」であって、移ろいゆく無常=真理を表現しているにすぎない。
「後世への手紙」は、孤独を内包する複数の読書人(どくしょびと)=真なる個たちから成り立つ。その理念はサイトに。
「いつの時代どんな状況でも、ちまたには他者との比較ではなく、己と向き合い本分を貫く方々がおられる。我々はその現実から学び、深めたい。」(Web新聞「後世への手紙」はじめに、より)
常に今が始まりだ。

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