社説 ▲桜満開▼
桜が満開である。今日はユニークな会に出た。浄土真宗のお寺に曹洞宗の住職を招いての学びの会だ。宗派を気にしない二人の住職は、仏教界では、“変人”らしい。在家の人間にはその辺の具合はよく分からない。どちらもお寺に住んでいてお経を上げるという点では、同じ仏教者にしか見えない。外見で気付きやすい違う点としては、真宗の住職は髪の毛を普通に生やしていて、曹洞宗の住職は頭を剃っているという点ぐらいか。どこの業界にも“5%の人”という人々がいるらしく、この二人に私は妙に惹かれるのである。
ところで今日の会で特に印象に残ったのが、袈裟(僧侶の服装)を着る体験である。こんな機会滅多に無いことで、文字通りの有難さを感じることとなった。畳まれた袈裟を広げることから始めるのだが、この有難い機会に、畳まれた袈裟を両手でそっと持った時ごく自然に頭が下がった。しかし浄土真宗の袈裟を着る動きについて、曹洞宗の住職(禅師)の指導を仰ぐのである。何とも変な気がするものだ。
袈裟についている紐を作法に則って結び、肩に斜めにかけるような具合に袈裟を着る。初めての体験とはいえ、無意識に身体が動いたのだが、首を引っ込めるような格好で袈裟を身体で迎えに行くような形になり、かぶった。その際に禅師が言ったことは、「袈裟を身体で迎えに行かない」ということだった。つまり、首を引っ込めることなく、袈裟を腕で高く上に上げてから、身体にそっと被せるように着るということ。こうすることによって、「物と人との関係性」を正しくすることが出来るのだという。実際、身体に被せるように着たところ、なんとも言えない包み込まれた安心感に満たされ、自然と合掌した。袈裟の機能性が、最大限に生きた瞬間だった。
私たちは普段「物と人との関係性」について意識することはあるだろうか。例えばお風呂から出て身体を拭くという動きを考えてみると、タオルで身体を擦るようにして水滴を取っていないだろうか。これは、タオルという「物と私の関係性」を意識しない行為である。本来であればタオルのもつ機能性を発揮させるのであれば、身体にそっと当てがうことで水滴を吸い取らせることの方が適している。もう一例。外出時に鍵をかけるという行動はどうか。鍵・ドアと自分との関係性を意識すれば、毎回鍵をかける際にそこに意識が向いて、後から鍵をかけたかどうか不安になるようなことは無いはずだ。一度意識してみてほしい。「物と人との関係性」を意識すると、とても気が落ち着く。
今日は袈裟を着る体験を通して「物と人との関係性」を意識することを経験したのだが、私たちは普段の日常の行動の一つ一つを大切にすることを考えてみてはどうだろう。中村天風師の言葉を借りれば、有意注意。意識を自分が今まさにしている行動に向けること。「物と人との関係性」を大切にできる。
春。新たな始まり。新たな環境。新たな人間関係。どうしたって気が散漫になる季節。無意識の行動を意識してみよう。それは自分自身に目を向けること。気がどっしりと落ち着いて、安心してくるはずだ。落ち着いて、行こう。
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