市川秀行「書く・徒然なるままに」

書いている時。それは。自分との対話のとき。
書いている時。それは。見知らぬ自分を見つけるとき。
書いている時。それは。あなたへの言葉を紡ぎ出すとき。

不思議ですね。
書くという行為は、とても一人称のような行為に思えるのですけれど、
書いている自分を見つめるという、二人称的な視点を持っている。
そして、出来上がった文章を見て、
これは一体誰が書いたのだろう?と思ったりもする。

ここで点を打とうかしら?と、思ってみたり。
ここで改行しようかしら?と、思ってみたり。
ここは漢字がいいかしら?それとも、
平仮名がいいかしら?と、思ってみたり。
そもそも、こういう文体は私の書き方なのかしら?と、思ってみたり。

必ず誰かの影響を受けている、自分。
一つ一つの言葉を選択する瞬間瞬間、
全くの無私な自分が、そこにいる。

最近読んだ本?
最近見たドキュメンタリー?
父親の、あるいは、母親の語り口調?
何かに引っ張られているような、
それはそれはもう私など無くなって、高貴な存在を感じるものです。

ある人は言いました。
歌詞を書こうとしたときに、言葉が<降りてくる>んです。と。
じゃあ一体、誰が言葉を<降ろしている>のか。
私が言葉を発しているのか?
言葉が私を使って、存在を表出しようとしているのか。

もしかして私、言葉に使われている???

書くということは、不思議なことですね。
そしてその不思議を感じることが出来るのは、やっぱり、
書くという行為があるからなのでしょうね。

やっぱり私、言葉に使われている???

書くということは、未知なことでしょうね。
大体これを書こうと用意したとしても、書き始めた途端に
未知の領域に足を踏み入れていて、大体予定から逸れる。

ほら、私、言葉に使われている!!!

だから私は、書くのでしょう。
未知なる自分の文章に、出会えるのだから。


ところでこの文章、誰が書いたのですか?


お終い。

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