佐古田「少年と恋」

少年期と恋について。
ここで話す少年期とは、実際の年齢と相関しない。
(恋と愛は全く性質が異なる)
まあ、文章にするとなんだか仰々しいが、
それぞれみんな、知らぬ間に自覚していることだ。


恋する少年がいる。
彼には他者がいつも存在しない。
恋はしているつもりでも心は触れ合わない。
自分という視点から離れず、己に囚われ事故を起こす。それは人間関係の事故。
傷、離別、涙、甘えの自覚。軋轢。
少年の成熟には痛みが伴う。

恋は、成熟へのきっかけになりうる。
恋をすれば充分(条件)かと聞かれれば間違いだ。しかし、成熟への必要条件ではあると思う。
恋する者から愛する者へ。未成熟から成熟へ。
人を愛する人もいる。人に恋する人もいる。


恋に情熱を注ぎ、求めても成就しない祈りの不均衡は人を成熟へ向かわせる。
恋はそのまま愛に繋がってはいない。一人称からの意識の脱出、他者視点を獲得出来るか。実を結ばない現実とどの様にして折り合うのか。その苦悩する問いこそ「恋するもの」に必要だ。
現実世界へ能動的に働きかけることのない自己陶酔に私は与しない。

「愛すること」
成熟することは一朝一夕に出来ることではない。
残酷だが、愛を知るために生きる人もいれば、愛することに生きる人もいる。
人の成熟には、葛藤と自己変革・不均衡さが必要であるが各々、スタートラインは決して同じではない。

我々は言葉を尽くす。しかし言葉の本質は「私だけのもの」である。
他者の言葉が自分のものになるには体験を必要とするし、それぞれ手元にある財産、各自固有の姿、性格で何だかんだやってみるしかない。
自分を再構築する機会は人生上振り返って見ても、ありそうで無いものだし
歳を重ねるほど「知」は前に出て、傷つかぬよう表層的な捌き方も上手くなる。
痛みこそ変革へつながるが、肉体的にはもう大人だと痛みを避ける。
恋愛という儀式を経て我々は自らの中で何を壊し、何を再建築してきたのか。

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