【社説 ▲全て有難いご縁▼】



11月18日にある会を開催すべく、密かに(?)準備をすすめている。
ここに至るまでに、数々の奇跡を経ているとしか思えない。
全てが有難いご縁なのである。

まず第一。この人に会えること自体が奇跡。
ある会社の社長様であるが、その会社自体がまず知られていない。
ホームページなど無いのである。
それでいて、確実にお客様との関係性を構築されており、ご商売も順調そのものである。
今回私たちとのお時間を作ってくださること、それは奇跡である。

第二。名古屋で会えることが奇跡。
その会社は東京に本社がある会社であり、当然のことながら社長様も東京在住である。
今回はご縁に導かれて名古屋にお招きすることになった。
私たち名古屋圏に生活する者にとってこれ以上の光栄があるだろうか。

第三。席が取れることが奇跡。
今回は10月1日に申込の受付を開始したが、10月31日には満席になってしまった。
申込方法の案内が届いた方は限られた方であるが、その中でも席を確保出来た方は奇跡である。
未だにキャンセル待ち枠の申込が来ていて、今か今かと席が空くのを待っている方が列をなしている状態である。
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さて、数々の奇跡を経て11月18日に向かっているところであるが、この社説のタイトルを「全て有難いご縁」としたのには訳がある。私自身今回の話をいただいたのもそうだし、案内の連絡が届いた方も、社長様にお会いできる今回の機会も、全てが人から運ばれてきた有難いご縁としか言いようがないのである。自分自身で意図して計画したことは、何もない。読書のすすめさんとの出会いもそうだし、名古屋の逆のものさし講の代表を務めているのもそうだし、11月18日の会についてもそう。全てが有難いご縁である。
巷には、人生設計なる言葉のもとに、日々の行動を計画的に決めていくことの大切さを説く考え方がある。目標を設定し、その目標を達成するための行動を計画して実行していく。会社勤めの経験がある方にとっては、「行動予定表」などの言葉は身近であろう。とかく予定、予定、予定、なのである。そういう生き方があること、そしてそういう生き方が尊いとする考え方を否定するつもりはない。一方で、ご縁に導かれて生きる生き方があるという考え方もあることを知ってほしい。特に自分の生き方に疑問を持つものにとっては、ご縁という考え方が救いになると信じている。ご縁ばかりは自分でどうしようもない領域なのである。そこには良いも悪いも無い。ただご縁だけが有るのである。
自分が自分であることも、ただただ、ご縁なのである。それを嫌がろうが、好きがろうが、ただただ、ご縁なのである。どうか自分自身を責めてしまった時思い出して欲しい。それも、ご縁なのである。

そしてこれが一番のミソなのだが、ご縁というのは必ず人から運ばれてくるものなのである。自力だけで得られる縁というのは、無い。また、他力だけでご縁が結ばれることも無い。自の力と他の力双方がある一つに向かって働いた時、ご縁が結ばれる。それはまるで卒啄同時である。(親鳥がひな鳥を孵す時に殻をつつくと同時に、ひな鳥が殻の内側から殻をつつく時に晴れてひな鳥が誕生する。)私たちは、自らの求めを常に行動に移しておかねばご縁を掴めない。運ばれてくるご縁はいつやって来るのかは分からない。分からないから良いではないか。分からないから、日々の行動が大切なのである。人生は、甘くない。辛くない。苦くない。人生は、ご縁である。
人生において誰と出会い、誰と密度濃い時間を過ごすかなんて、自分自身で決めることは出来ない。であるならば、導かれて出会った人とのご縁を、導かれて作られた時間を、有難いものとして最大限に頂戴しようではないか。そのために、毎日の瞬間瞬間を、精一杯生きよう。



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